和泉国総社 泉井上神社


◆泉井上神社の由緒

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◎縁起

上古より鎮座なされ万物創造の神である独化天神は天之御中主神[あめのみなかぬしのかみ]、高産巣日神[たかみむすびのかみ]、神産巣日神[かんむすびのかみ]ともいい生命の守り神、招福の神として信仰されました。
神武天皇はご東征をお祈りになり、神宮皇后は仲哀天皇の御即位二年(200年)四月に行啓なさった時に急に泉ができ清い水がこんこんと湧き出したので瑞祥として喜ばれ、この水を霊泉といい、宮としておまつりなさいました。これより「和泉」の国名がつけられました。元正天皇の霊亀二年(716年)ここに和泉監を置き、この土地が国府となり、地方行政の中心地となりました。
その傍に総社を建立し、大鳥、穴師、聖、積川、日根野の神をおまつりし、御諸別命とも合わせおまつりされています。和泉大社、和泉総社と呼ばれ泉州全体の氏神として崇敬され、一般の人々の信仰も厚くしばしば紳異があり、その都度、勅使の奉幣がありました。
ご社領は霊亀元年和泉諸上[もろえ]勅命により珍努県主倭麿の領主を世襲し、数百町の神田(土地)、神戸(人民)を領有し、左大臣橘諸兄の子諸貞より代々祭主職兼国司在庁をついで国司、勅使代、公文所、寺社を総括し、近郷を領有しました。
中世には武職をかね国府城主となり、祭りと政治を行っています。正平、明徳、天正の時代には一万石の待遇を受けました。その子孫は現在もお宮の宮司をつとめています。又南町の忠臣和泉の国侍は国府城に屋敷をかまえ、妻子をおき、勤王の義兵の土地でもありました。ところが天正十三年豊臣秀吉により石高を減ぜられ、明治六年には境内ひろ過ぎるとして一部を残し上地されています。

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